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「片道兄妹」と映画の作り方

「片道兄妹」は、タイトルの如く片道にある兄と妹の話です。実際私には妹が一人いて、そのことは作品の中のそれとは似ても似つかぬものですが、今までの作品においても、「妹」が唯一の家族の姿であるように描かれており、本作も例外ではありません。良くも悪くも、実際の「シスター」とは全く別の「シスター」なのですが、ここに来て私の作品における「シスター」というものは、主人公を押しのけて、愛しくも図々しく、ワガママにも優しく存在していることを知るのでした。※英語で語ると不思議と何だか他人事のやうである。

自分の馬鹿さ加減を露見するようで嫌なのですが、今まで作り続けてきたことで、ここにきてようやくはっきりと気付いたことが多くありまして、そうなってしまったが最後、これからは弥が上にも意識していくことになるのです。

私にとって映画を作るということは、画を発掘し画をつなげることであって、昔あった記憶の断片や夢の途切れ途切れを貼り合わせるような作業だとすれば、そこに薄く引っかかっていた意思が少しずつ膨らんで自分の眠っていた意識と接続するような感覚なのです。

物語を考える時、それは多く人物も同時に生まれるわけですが、全員がぴょこんと現れるわけではありません。私の場合、ほんの一場面がぽんっと現れるのですが、その時は、多少なりとも物語性を孕んでいても、まだまだ決して物語とは言えぬ代物です。淋しさとも哀しみとも言えぬ曇天の気配に覆われた人物のない情景である時もあれば、四角い枠の中で人物が目的も持たずに配置され彷徨っているような描写の時もあるのです。それはその時の私自身の現実感なのだと思っておりますが、それを忘れんがため、何ものかに繋げようとします。その結果物語が生まれます。

「片道兄妹」で最初に発掘した画は、後者のような、人間の形をした半透明の生き物がどちらを向いているかわからぬような画であり、それはその後現在の脚色されたラストシーンに成り代わりました。撮影台本では台詞を入れましたが、結局本編では使いませんでした。         

本作に限っていえば、ラストの画が初めにあって、それから冒頭の画へと時間を逆に巻いていくように書きました。最後まで悩んだのが冒頭シーンです。妹が旅立つシーンから物語を始めることを考えてはいましたが、長いこと具体的なものは掴みきれないままでいたことを覚えております。ちなみに多くの作品では、本編の途中の画が、その発掘された画にあたります。よって、いつもはそこから冒頭の方へと、次は、ラストの方へと、行ったり来たりするわけです。

少し妹の話に戻ります。「立秋」の妹は、過去や未来に押しつぶされそうになりながらも、兄の前では気丈にありました。「おじさん」は、兄妹が身寄りのない叔父さんの世話をする物語ですが、妹は大きな淋しさに支配されつつも兄と叔父さんが一番心配です。「さよならハーバー」には、自立した妹が二人登場しますが、どちらも他人の干渉を受けず、一人泣きながらも一人生きていけることを振る舞います。「高井戸ラバー」で姉と暮らす妹は、弱者であるかの如く言葉を持ちませんが実は一番のしたたか者です。それぞれが私の物語の中で確かな存在意義を持ってありました。私が原稿用紙に一文字目を書く前から在るもの達だったと思うのです。言うなれば、それは、最初の画から生まれた世界なのでした。

「片道兄妹」にも不器用な愛すべき妹が登場し、兄とのやりとりは可笑しく微笑ましい場面です。私は現実に妹と二人旅をしたことはありませんが、そんな兄妹がいたら実際珍しいことなのかもしれませんが、今回の兄妹は二人きりで小さな旅をするのです。家族というのは不思議なもので、かけがえのない存在でありながらも、実のところ他人のようでもあります。兄妹であるという事実だけで、実に楽に過ごすことができますし、逆に疎ましく思うこともあります。

私はこれからも妹と二人で旅をすることは決してないと思いますが、実の妹の登場しないこれらの物語も、私自身の物語の一部であることには間違いありませんので、今までの作品で妹の名を欲しいままにしている分、たまには恐縮して感謝の意を述べなければなりません。

と言いましても、「片道兄妹」は、私の現実がモデルになったわけではありません。ここで先ほどの、私の映画作りではまず画を発掘する、に戻りますが、本作は私の常日頃感じる「旅の途中」感から派生した物語で、最初の段階では家族や妹とは全く関連性がなく、発掘された画、その姿は、この度のラストシーンにうまいこと当てはまり、私の思い込みかもしれませんが、画の中に佇む半透明の宇宙人は蓋を開けてみれば兄妹だったということでした。「旅の途中」感とは何か、それは本編で確かめて頂きたい。「片道兄妹」の「妹」には名前はありません、ただ妹として在ります。今までの「妹」とは違い、名前はつけませんでした。

言葉にならない実感から始まり、その実感を仮の物語の中に何度も沈めていく、繰り返しているうち何度も見えなくなり諦めることもしばしばあります。そういつも映画になるとは限りません。少し輪郭がはっきりしてきたら、その実感はゴールでもあるので、導く努力をしなければならない、それは大変面倒な作業です。最終的にループするように、最初に得たその実感を最後にもう一度味わうことが出来れば、それはおそらくうまくいったことになります。が、その一連の作業が果てして有意義なことと呼べるかは正直私には疑問なのです。しかし、だからこそ続けていく意味があると思うわけです。

二人の小さな旅は、互いの過ぎた人生に触れる機会を与えられ、最後に一つだけでも二人だけの、何か共通の認識を持たすことが私の精一杯の企みという名の優しさなのでしょうか。この映画が作られる前に、私の中に最初にあった「最後」の画は、個人的なものでありながら、普遍的であるための二人のパントマイムとなっていて、私にとって特別なシーンになりました。願わくば、自分の一番個人的な部分を、私とは違う他人が共有してくれること、それはとてもとても感動的なことです。

「旅の途中」の精神は続けて撮りました「くにこマイル」にも引き継がれ、そういえば、タイトルロールのくにこ(国子)は、正真正銘物語の主人公であり、物語上、家系上、何某の「妹」になります。あの小さくて愚鈍で、生意気で弱虫で、寂し気だけど強気な妹は、一人生きる術を身につけ逞しさを持って最近主人公になったのでした。(2012/11/21)